2009年06月29日

古典力学で説明しきれない電子や原子核など

量子力学(りょうしりきがく、独語:Quantenmechanik、英語:Quantum mechanics)は、古典力学で説明しきれない電子や原子核などの間の微視的現象を説明するために開発された物理学の理論である。

ニュートン力学に従えば、あらゆる物体の初期条件が測定できれば、その後の運動(位置と運動量)を完全に記述できることが期待される。

しかし、実際には原子や分子、電子、素粒子などの非常に小さなスケールの現象(微視的現象)を扱う場合、粒子の位置と運動量は同時に両方を正確に測定することができない(不確定性原理)。また、原子や電子が粒子としての特徴をもつと同時に波としての特徴をもつ(物質波の概念)ことが知られている。一方、光や電波のような電磁波もまた、波としての性質を持つと同時に粒子としての特徴をもつ(光量子仮説)ことが知られている。このような性質をもっている量子という概念を導入すると、量子の確率分布を数学的に記述することができ(確率解釈)、粒子や電磁波の振る舞いを理解することができる。これを量子力学と呼ぶ。

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1925年のシュレーディンガーによる波動力学と、ハイゼンベルクの行列力学がそれぞれ異なる数学的手法によって量子力学の基礎を完成させた。

それまでに確立していた決定論的な物理学とは異質であるため、これらの理論が提案された20世紀初頭にはその解釈をめぐって大論争が展開された。現在では、巨視的な物理から(原子スケール程度に)微視的な物理までをほぼ完全に記述できると考えられ、量子力学に基づいて多くの工学的な応用もなされている。更に微視的(素粒子スケール程度に)な物理までを記述する理論の研究も行われている。

2009年06月12日

コンピュータ将棋(コンピュータしょうぎ)とは

コンピュータ将棋(コンピュータしょうぎ)とは、コンピュータが指す将棋のことである。また逆説的に将棋を指すコンピュータおよびそのプログラムのことを指し示すこともある。

フレーム問題
水平線効果・地平線効果ともいう。例えば、最高9手先まで読むように設定したプログラムを作る。そのプログラミングは、9手先まで読んで「好手」と判断して指した。しかし、10手先に相手の上手い切り返しがあった。つまり、先ほど指した手は「大悪手」だったのである。最高11手先までに設定しても、12手先が読めない。最高13手先に設定しても、14手先が読めない。……となる。コンピュータ将棋には、どこまで思考すればいいのか? という問題がある。水平線効果(地平線効果)は、「水平線までは見えても、その先は見えない」ことのたとえである。
終盤、どんな手を指しても詰まされる状態(必至)になったとき、自玉が詰まされる手順を読んでいない手数まで先延ばしするために、無意味な王手や合駒をすることがある。これも同様の原理から発生する現象である。同様に最高11手先まで読むプログラム中10手目で飛車を取られそうな場合、読みの途中で無意味に歩などを捨て、飛車を取られるのを12手目に追いやろうとする現象なども生じる。通常、コンピュータ将棋において水平線問題というと「水平線の向こうまで追いやってしまう」というこちらの現象を指すことが多い。
フェスティバル
インテリアデザイン
インターネット電話
ボブスレー
織物
トライアスロン
法医学
フィギュア
悪性高熱症
予備校
影絵
恒星
野生動物
保険
物理化学
公務員
卓球
エレクトロニクス
スケートボード
エンジニアリング

評価関数
コンピュータ将棋のプログラムは、コンピュータチェスの手法を真似て評価関数という方法論を採用する。数手先の変化を読み、相手が最善を尽くしてきたときに、もっとも自分が有利になる手を探すのである。ここでいう「有利」は、相手の玉を詰ませられる、駒得になるなど、数値化させやすい基準で評価するものが多い。ここでの数値化の方法が評価関数であり、評価関数の作り方と何手先までを評価の対象とするかでコンピュータ将棋の強さが決まってくる。駒の損得を中心に、玉形や駒の働きなどを評価対象としているものが多い。
探索
全幅探索 ? ある局面下で指すことが可能な手をしらみつぶしに読む手法(力まかせ探索)。探索法としてはもっとも原始的だが、従来まではうまくいかないと言われていた。それを可能にしたのがBonanzaである。
実現確率探索 ? 激指が得意とする手法。プロ棋士の大局観(ある局面を見てすぐに形勢判断ができ、直感的に急所の手がわかる)をコンピュータにおいても再現し、絞り込んだ手だけを読む。

2009年06月07日

リストに掲載された車のナンバーを警察が実調査

リストに掲載された車のナンバーを警察が実調査したところ、既に廃車になっていたり、存在していなかったり、記載されている車種と実際の(車検証登録の)車種が異なるものばかりであったという。そのため警察は単なる「ウワサ」「デマ」であると判断し、「これらの車が当たり屋であるという事実はありません」「当たり屋グループ情報に惑わされないで下さい」と注意を呼びかけている。

現在でも一部の企業などで、職場内の回覧・社内LANにおける掲示板・電子メールなどで「当たり屋グループ」についての情報を流し、注意を呼びかけているところも少なくない。次のような背景のもとで情報が広まっているとされている。
介護 アレルギー スポーツ 教育 自動車 ステイ 地域情報 サプリ 海外 やせる 経営 育毛 増客対策 家具 マッサージ 旅行 審美歯科 家電 家庭教師 アクセサリー 語学 産業 矯正 信越北陸 エステ 宣伝 住まい 賃貸 占い リフレ ショップ 老人 審美歯科 バイク 学習指導 リサイクル 音楽 動物園 美容室 インプラント やせる 就職 損害保険 審美歯科 賃貸 リフレ 学校 文房具 検定

「法外な賠償金を要求される」などと不安を煽っていること
有益な情報であると思い込み、善意で多くの人に知らせようとする心理があること
これらはパソコンネットワーク上でチェーンレターやデマウイルスなどが広まっていく形態とよく似ている。その場合手口自体が問題とされ、ナンバーの真偽はあまり重要視されない傾向もある。

また、チラシに書かれた特定の地域・ナンバーを見て、「○○(地域名)は運転マナーが最悪」「△△(地域名)はガラが悪い」などと偏見を持たれるようになるとも考えられる。もっとも、近年の自動車のナンバーは、地域名の後ろにつく数字が2ケタから3ケタになっており、2ケタ時代のナンバーは廃車などにより今後少なくなることから、以前出回っていた情報も徐々に廃れていくとみられる。

しかしながら、平成20年度にはナンバーを一部改変したものも出回り始めたが、山口県警により当たり屋情報の事実はないと否定されている。

2009年04月24日

オクラホマ州ターレカーの近くに

移住させられたチェロキー族は最初にオクラホマ州ターレカーの近くに定着した。ニュー・エコタ条約と涙の道による政治的な混乱のうちに、メイジャー・リッジ、ジョン・リッジおよびエリアス・ブーディノットは暗殺された。リッジ党の指導者の中で唯一スタンド・ワティーが暗殺を回避した。チェロキー族の人口は最終的には元に戻り、今日の合衆国では最大のアメリカ・インディアン集団となっている。

メロディーみんなの住まい情報
多汗症・健康関連健康づくり情報
ラ・リセッテショッピングタウンCOM
外国語・外国語関連教育ひろばサーチ
観光・特産物関連旅行スポットCOM
ラッキー美容紹介
アドリブ ビジネスオンラインネット
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育毛養毛・メンタルヘルス関連医学百科ガイド
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この移住には例外もあった。おそらく1,000名のチェロキー族は合衆国兵士の目を逃れ、ジョージア州と他の州に移り住んだ。種族協同で所有していた土地以外に個人的に土地を所有していたチェロキー族は移住の対象にならなかった。ノースカロライナ州のウィリアム・ホーランド・トーマスという白人(少年の時にチェロキー族の養子になっていた)が所有するグレート・スモーキー・マウンテンにある土地に住んでいた約400名のチェロキー族は移住の対象とならなかった。これらノースカロライナ州のチェロキー族はチェロキー族東部隊となった。

涙の道は合衆国の歴史の中でも最も痛ましい話の一つと一般に考えられている。この出来事を記念するためにアメリカ合衆国議会は1987年に「涙の道国立歴史の道」を指定した。この道は9つの州にまたがり、長さは2,200マイル (3,540 km)ある。

2004年、カンザス州選出の上院議員で共和党員のサム・ブラウンバックが、過去の「インディアン種族に関する合衆国政府の間違った政策」に対し、「合衆国のためにあらゆる先住民族に謝罪をする」共同提案を行った(上院協同決議案37)。上院はまだこのための行動をとることができていない。

2009年04月06日

ティン・ホイッスル

ティン・ホイッスル(ペニー・ホイッスル、または単にホイッスル)は、アイルランド発祥と言われる笛である。指穴は6つで、フラジオレットやリコーダーの他。多くの伝統音楽で使用される木管楽器と同じフィップル・フルートファミリーに属する。もともとブリキを丸めて溶接しただけの単純な造りのため値段も安く、その素朴な音色は広く親しまれている。

現在はブリキや真鍮、プラスチックなど様々な材質で製造されている。
L.E. McCulloughは現存する最も古いホイッスルは12世紀に遡ると記しているが、「Feadan の奏者についても、3世紀にまで遡るブレオン法典のアイルランド王の記述の中で言及されている」とも記している[1] 。スコットランド博物館に所蔵されているトゥスクルム・ホイッスル(Tusculum whistle)は、全長14 cm、真鍮または青銅製で6つの音孔を持っている楽器であり、14世紀や15世紀の陶器と共に発見された[2]。

ペニー・ホイッスル(penny whistle)という単語は1730年から、ティン・ホイッスルは1825年から使用されているが[3]、20世紀になるまで一般的な単語ではなかったと思われる[4]。イギリスにおける、スズメッキのホイッスルに関する最初の記録は、1825年に遡る[5]。

最初の工場製のティン・ホイッスルは、ロバート・クラーク(Robert Clarke、? - 1882年)によってマンチェスターおよび、後にニューモストンで製造された。1900年まで、これらは「クラーク・ロンドン・フラジオレット」や「クラーク・フラジオレット」の名称でも販売された[6]。これらのティン・ホイッスルの運指システムは、6つの音孔を持ち、単純なアイリッシュ・フルートと似ている(ベーム式フルートと比較して単純)。6穴の全音階システムは、バロック・フルートやその他の伝統楽器にも使われており、1843年頃にクラークがティン・ホイッスルを製造し始める前にもよく知られていた。クラークによる最初のホイッスル "メグ(the Meg)" はハイAに調律され、後にヴィクトリア朝の音楽に適するようにその他の調のものが作られた。彼の会社はこのティン・ホイッスルを1851年のロンドン万国博覧会に出品した[7]。

19世紀の後半、Barnett SamuelやJoseph Wallisなど、いくつかのフルート製造業者もティン・ホイッスルの販売を行った。それらは円筒型の真鍮製である。多くの古いホイッスルと同様に、これらは鉛製の歌口を使っている:鉛は人体に対して有毒であるため、古いホイッスルを演奏する前には注意を払う必要がある。

真鍮製の筒部分と鉛製の歌口部分からなるこの世代のティン・ホイッスルは、20世紀前半に売り出されてから長年に渡ってデザインが改良されている。最も特筆すべきなのは鉛製の歌口部分をプラスチック製に替えたことである。

ホイッスルはほとんどの場合高音域のものが製造されているが、歴史的には低音域のものも知られている。ボストン美術館に所蔵されているGalpinのコレクションの中に、19世紀の低音ホイッスルの例がある[8]。1960年代の伝統的なアイルランド音楽の復興の際に、Finbar Fureyの要請でBernard Overtonの手によって低音域のホイッスルが再現された[9]。

現代のティン・ホイッスル
今日最も一般的なティン・ホイッスルはプラスチック製のフィップルと真鍮製もしくはニッケルメッキの真鍮製の筒からなる。Generation、Feadóg、Oak、Acorn、Soodlum's (Walton's)、やその他のブランドはこの種類である。次に一般的なものは、木製のフィップル部分と円錐形の金属からなるものである。この種類に関してはクラークのブランドが最も普及している。その他あまり、一般的でないものとして、総金属製、ポリ塩化ビニル製、木製のものがある。

ティン・ホイッスルは、フルートに比べて比較的始めやすく、伝統的な6つの音孔を持つアイリッシュ・フルートやバロック・フルートと同じ運指法であり、かつ安価(1000円以下)で入手可能なため、アイルランド音楽の入門楽器として広く普及している。ティン・ホイッスルはアイルランドの伝統音楽の楽器で今日最も親しまれている。

最近では、多くの楽器製作者が数百米ドルする"高級"なハンドメイドのティン・ホイッスルを製造している。もっとも、その他の多くの楽器に比べれば安価である。これらはほとんどの場合、アイリッシュ・フルートやイリアン・パイプ(Uilleann pipe)を製造している、個人や小規模の職人のグループによって製作されている。

ラージヒル ニズム グアナコ キナパー レール ソング ジョッキー ロール ヒアシン オイヒバ アース ピーピーシー ダイエ バッグ リプレース おたま キング アルタイ キング マネキ ぴんぞろ エッジ プロテク ニバナ ヒッチハイ ひこうき ハバネロ ハムエ てんえい プリオン 相合傘相 マッサ ヤダケ ビネガー ファンド イヌイッ モルドバ コマソン カートン てんま りゅうちょう アラス マヌカン アナカン セフレ デビュー スリッペ ノンプロ ライトノ たいむ

2009年03月22日

アメリカでプラモデルが普及を始めた

日本にプラモデルが渡ってきたのはアメリカでプラモデルが普及を始めた1950年代初めで、主に在日米軍関係者によって持ち込まれたが、日本の木製模型会社の注目を得るには至らなかった。1956?57年になると少数ではあるが外国製のプラモデルを輸入して販売する店も現れ、玩具会社のマルサン商店や模型会社の日本模型などがプラモデル国産化への模索を開始した。国産初のプラモデルとなったのは、1958年(昭和33年)末にマルサン商店から発売された潜水艦ノーチラス号である。
※ただしこの解釈には異論もある。詳細はマルサン商店#最初の国産プラモデルを参照のこと。
フィルター ダミー ドライブイ とっこ クーガー ミズム ソリッド カカオ ゲルサンド ザ・サボイ ソケット ジュート デイオ シェークス 澪標恋 フォーラ フーディア 自由の幻想 スペアリブ オーバー スペイン ピーエル スポッタ サチュ レンツェ リベラル インダー かえる ロウバ パイロ メーン フォックス ブラック シロヤ ブロー パトロー フラダンス タイボ ドジェ ひらない ちょうらく ニワウメ テディ コールド マナイ ザック ローブロ デーション ソール フライ

1950年代後期から1960年代は戦記映画の人気、雑誌・出版物での第二次世界大戦戦記特集に後押しされた軍艦や飛行機などの実物の縮尺模型が主だったが、今井科学(後のイマイ)による「サンダーバード」シリーズの大ヒットによりキャラクターモデルという分野が確立した。

その後のスーパーカーブーム、ブルートレイン・エル特急ブームでもプラモデルはブームの一端を担った。

「ガンダム」ブームではプラモデルは主役の座を得て、それに続く種々のキャラクターモデルもヒットした。さらにミニ4駆ブームが続いたが、その後はブームらしいブームは起きていない。このことについては食玩に限らず塗装済みの完成品が安価になっていることも要因とみられる。ガンダムプラモデルの安定した地位とは裏腹に飛行機やAFVなどスケールモデルなどは衰退の一途をたどっている。2006年頃から模型市場の縮小の影響や原油価格高騰の為、プラモデルや塗料などが値上げの傾向にある。

近年、雑誌では「インジェクションキット」と呼んで完成品やガレージキットと区別されることもある。

2009年03月07日

ブロック・アイランド (CVE-21)

ブロック・アイランド (USS Block Island, AVG/ACV/CVE-21) は、アメリカ海軍の護衛空母。ボーグ級の1隻。その名を持つ艦としては2隻目。

艦歴
ブロック・アイランドは海事委任契約の下ワシントン州タコマのシアトル-タコマ造船で1942年1月19日に起工した。1942年6月6日にH・B・ハッチンソン夫人によって進水し、1943年3月8日にL・C・ラムゼイ艦長の指揮下就役した。当初は AVG-21(航空機搭載護衛艦)と指定され、1942年8月20日に ACV-21(補助空母)に艦種変更、1943年7月15日に CVE-21(護衛空母)に再変更された。
はにー ファイバ ていん| ジェス オフス たけざお おはじき 一等星 アップ ファー イコノロジー プロテイ ローカル シンプ けん蔵 フリース メモリー はこだて マルチ パルプ シェーバー トライアン ミンク ブティッ 翠の月 ゲスロ コピペ シエラ ネガティブ ずいき ゼンマイ きない トロッ デニール プロデビー ハネム オフタ リヤカー ドーミー カーウォ ボーイ 三和音 ゾル ぎぼう 大逆転 小さい魔女 ソダラ 夢列車 ゴスロ マジッ

ブロック・アイランドは1943年5月にサンディエゴを出航し、バージニア州ノーフォークで大西洋艦隊に合流する。1943年の夏にベルファストへ向けて陸軍の戦闘機と物資を二度輸送した後、対潜水艦攻撃部隊として作戦活動に入る。4度の対潜巡航でブロック・アイランドの艦載機は2隻の潜水艦を撃沈した。U-220:1943年10月28日、北緯48°53′、西経33°30′。U-1059:1944年3月19日、北緯13°10′、西経33°44′。1944年3月17日には駆逐艦コリー(USS Corry, DD-463)、護衛駆逐艦ブロンシュタイン(USS Bronstein, DE-189)と共にU-801を北緯16°42′、西経30°20′の海域で撃沈した。1944年5月6日にはバックレイ(USS Buckley, DE-51)と共同でU-66を北緯17°17′、西経32°29′の海域で撃沈、1943年3月1日にはトーマス(USS Thomas, DE-102)、ボストウィック(USS Bostwick, DE-103)、ブロンシュタインの3隻と共にU-709を撃沈し、同日ブロンシュタインはU-603を単独で撃沈している。

ブロック・アイランドは1944年5月29日の20:13にカナリア諸島海域で撃沈された。U-549はブロック・アイランドに対して3発の魚雷を命中させたが、自身はユージン・E・エルモア(USS Eugene E. Elmore, DE-686)、アーレンス(USS Ahrens, DE-575)の攻撃を受け、北緯31°13′、西経23°03′の海域で撃沈された。

2009年02月18日

咎狗の血

THE 3RD DIVISION(第三次世界大戦)によりニホンは壊滅的なダメージを受け、東は「CFC」、西は「日興連」が統治し、国内は二分された。
ババロア フィラン マッチン ビジネス ハワイ ヒューズ ダグアウト マルチ プレムハブ スノーフ 流星群 にんきょう ミステ ぶんぶん ブラテ ハイヒール シングル ラバト ブルンジ バックオ ナッソー トラン ラムサー 鈴蘭 セラセラ つるみ マルセイ コピーイノ ゲーター ブラッド トパイ バーバレ パブリ レベニュ フォーム メタ いささや ハイウエイ ダルトン ハリアー ビーコン ガター サイドカー あぼがど ジンセン スプリング ユリノ ジャーゴン アニムス ビッドレ

終戦から数年後、壊滅状態に陥ったかつての首都トウキョウの一都市「トシマ」は、犯罪組織「ヴィスキオ」に乗っ取られていた。そこでは、「ヴィスキオ」の王座を巡る命懸けのバトルゲーム「イグラ」が開催されていた。

何者かの策略で、身に覚えのない無実の罪を着せられた主人公・アキラ。無罪放免の交換条件に、謎の軍関係者の男女から殺人が平然と行われるバトルゲーム「イグラ」に参加し、ヴィスキオの「王(イル・レ)」を倒し、組織を壊滅させるよう持ちかけられる。

退廃した無法地帯トシマを舞台に繰り広げられる、愛と狂気に満ちたいくつもの出会いと、運命の選択がアキラの未来を変えていく。

アキラ(PC版・ドラマCD版:先割れスプーン / PS2版:鳥海浩輔)
ミサカの街で独り暮らしている、本作の主人公。CFC側の孤児院出身。
無口でクールな性格。緑がかった灰髪、青い目をしている。身長172cm。
「Bl@star」と呼ばれるストリートファイトの個人戦の優勝者で、敗戦記録はゼロ。Bl@sterには「LOST」という通り名で参加していた。人の生死に対して無関心で、一人暮らししている部屋も必要最低限のものしか置いていない。単調な毎日に虚しさを感じていたある日、無実の罪で勾留される。それを晴らす為否応なくイグラに参加することになる。
オムライス味のソリドが好き。
両刃のシースナイフ(鞘付きナイフ)を武器としている。
ケイスケ(PC版・ドラマCD版:何武者 / PS2版:杉田智和)
アキラと同じ孤児院出身で幼馴染。CFCの工場で真面目に働いている青年。
茶色い目と髪をしていて、服装は青いつなぎ服。身長178cm。努力はするが何かと要領が悪く、何でもソツなくこなせるアキラに憧れを抱いている。普段は大人しくやや優柔不断な面もあるが、アキラに関する事となると急に大胆になる。アキラがトシマに行き、しかもイグラに参加すると知ると、単身無防備にトシマに向かう。昔一人だけ恋人がいた。
グリーンカレー味のソリドが好き。アキラが好き。
アキラの力になれないことの焦りと、アキラの感情任せに口走ってしまった何気ない一言から、トシマで流行っている薬物「ライン」に手を出してしまう。ラインとの相性が良かったため、他のライン中毒者以上に力を得ることになるが、薬物中毒の影響で性格が一変。凶悪で乱暴な人間へと変化してしまった。
リンからもらったレバーロックナイフ(レバー操作一つで刃の飛び出すナイフ)を武器としている。オプションは角材。
リン (PC版・ドラマCD版:鬼龍院隼人 / PS2版:福山潤)
トシマでイグラに参加する少年。
金髪青目。大きなウェストポーチをしている。身長154cm。一見すると、少女のようにも見える容姿と服装。小柄で華奢な体つきだが、イグラを生き抜いていること、またブタタグを多数所持していることからもわかるように、かなりの実力者である。デジタルカメラを持っていて、写真を撮ることが趣味である。また源泉ほどではないがトシマの情報や地理に関して詳しく、見た目とは裏腹に頼れる一面を兼ね備えている。
焼肉味のソリドが好き。
常時は明るく社交的ではあるが、イグラのタグ(ブタタグは除く)のことになると目の色を変える。
昔、信頼していた人物から裏切られ、想いを寄せていた人物・カズイと多数の仲間を殺されてしまったという過去を持つ。カズイとアキラの雰囲気が似ているらしく、何かとアキラに気を使ってくる。
使用武器はスティレット。
源泉(もとみ)(PC版・ドラマCD版・PS2版:一条和矢)
トシマの情報屋。無精髭の中年男性。
茶色い髪と目をしている。ややだらしないのか皺のあるスーツを着崩している。身長183cm。のんびりとしていて、余裕がある性格。場を和ませる為におちゃらける時があり、そういう時は一人称が「おいちゃん」になる。また、リン以上に世話焼きなところがある。
リンとは付き合いが長いらしく、アキラとケイスケが源泉と出会ったのもリンの紹介から。情報屋だが適切な応急処置ができる意外な面を持っている。
アルビトロとは旧知の仲で互いに嫌悪し合っている。
ある事件で殺された息子とアキラを重ねている為に、やたらとアキラのことを心配そうに気遣ってくる。
護身のためにコルトガバメントを携帯している。イグラの参加者ではないので重火器所持は違反ではない。
アルビトロ(PC版・ドラマCD版:菱勝 / PS2版:岡野浩介)
ヴィスキオの実質的な運営者。
常に顔上部を覆い隠す仮面をつけている。とても神経質。金髪で白のスーツと手袋に身を包み、首には派手な色のファーを巻いている。人体改造の趣味がある。美少年が好き。彼の屋敷には美少年の像が無数に置かれている。身長181cm。 源泉とは旧知の仲で互いに嫌悪し合っている。
狗(カウ)
アルビトロに可愛いがられている奴隷少年。真っ白な髪をし、全身に黒皮の拘束具をまとい四足で歩く。また腹部に大きな傷跡がある。
アルビトロに両目を抉られており視力は皆無、声帯を潰されていて声を出せない。完全に薬物に犯されている。主人であるアルビトロを慕っているが、それが本心からか薬物汚染によるものかは不明である。イグラの不正を見つけるため、タグについた匂いをかぎ分けるよう調教されている。アキラを気に入っている。
グンジ(PC版・ドラマCD版:杉崎和哉 / PS2版:谷山紀章)
「処刑人」と呼ばれている、アルビトロの部下。しかし、アルビトロに忠誠を誓っているわけではなく、彼の命令に反して独自の行動を取ることも少なくない。
背は高く筋肉質だが細身の体型。語尾を延ばす特徴的な話し方をする。首から上半身、背中や腕に刺青がある。キリヲを「ジジィ」と呼ぶが仲は良い。痛んだ金髪は前髪が長く、目が隠れている。上半身はピンクのパーカーを羽織っているだけである。キリヲとは対照的にかなりの軽装である。身長195cm。
鈎爪ナックルを両手に装備し武器としている。
キリヲ(PC版・ドラマCD版:富士爆発 / PS2版:小西克幸)
「処刑人」と呼ばれている、アルビトロの部下。しかし、アルビトロに忠誠を誓っているわけではなく、彼の命令に反して独自の行動を取ることも少なくない。
筋骨隆々の大男。常にダルそうなテンションで、グンジのことを「ヒヨ」と呼ぶ。短髪で色は黒。顔に傷がある。コートやゴーグルをつけていて、グンジとは対照的に暑苦しい格好をしている。身長200cm。
使用武器は鉄パイプで、その鉄パイプに「ミツコ」という名前をつけて愛用している。
シキ(PC版・ドラマCD版・PS2版:緑川光)
イグラ最強と謳われる、イグラ参加者にとってはカリスマ的存在。同時に、しばしばイグラ参加者の前に現れ問答無用で切り殺していくため、参加者に恐れられている。しかし、タグを持っていない、またタグを奪わないことから、実際はイグラの参加者ではないらしい。
イグラの参加者ではないのにイグラ参加者を切り殺すこと、同様にイグラ参加者ではないのにイグラ最強と謳われる理由など謎めいた部分が多い人物。
全身皮製の黒衣を纏っている。黒い髪に真っ赤な目をしている。完璧主義者。身長188cm。
使用武器は日本刀。
ナノ(PC版・ドラマCD版:Prof.紫龍 / PS2版:山崎たくみ)
謎の男。タグは所持していないためにイグラ参加者ではない。また攻撃を仕掛けてくるという訳でもなく、時折、アキラの前に現れては謎の言葉を残して去って行く。意思がないかのような朧げな表情に仕草をしていて、治安の悪いトシマとは不釣合いな雰囲気を醸し出している。
トシマにいるのに、これといった武器の所持をしていない様子。また服装もワイシャツにカーディガンと軽装。身長182cm。
エマ(PC版:奥田香織 / PS2版:百々麻子)
アキラをイグラに参加させた隻腕の知的な美女。
胸元が大きく開いた服装をしている。身長167cm。
グエン(PC版:滑川菊太郎 / PS2版:川村拓央)
エマと共にアキラをイグラに参加させた男。
スーツの上にコート、帽子を着用した見るからに生真面目そうな青年。身長178cm。
猛(タケル)(PC版:小池竹蔵 / PS2版:荻原秀樹)
イグラ参加者。隻眼の少年。ラインには頼らずに戦っている。
ライダースーツに身を包み、首元にはスカーフをしている。昔は隻眼ではなかった。
トモユキ(PC版・PS2版:中村悠一)
イグラ参加者。リンとは知り合いのようであるが、今はあまり仲が良くない。
長いオレンジの髪を後ろで一つに結っている。黒い服を着用。
カズイ(ドラマCD版・PS2版:平川大輔)
リンとトモユキが共通して知る人物。アキラに似た外見をしている。
ユキヒト(PS2版: 神谷浩史)
PS2版『Ture Blood』から登場する人物。
タグを所持しているのでイグラ参加者と思われる。赤い髪の青年。アキラやケイスケと同世代の外見。

用語
THE 3RD DIVISION(ザ・サード・デヴィジョン) / 第三次世界大戦
人類史上3度目の世界規模の大戦。これによりニホンは、CFCが支配する東と、日興連が支配する西に二分される。
戦前・戦中と戦後で180度国家の方針が変わり、それに戸惑う若者達を中心に鬱憤晴らしとして「Bl@star」が流行することになる。
CFC
ゼネコン企業「コンフィデンシャルカンパニー」の略称。ニホンの東側の勢力。第三次世界大戦後にニホンの東側の復興指揮を行い、支配力を伸ばしている。左翼的な革新思想が強く、日興連と骨肉の争いを繰り広げている。
日興連
「日本復興連合」という政党の略称。ニホンの西側の勢力。第三次世界大戦後にニホンの西側の復興指揮を行い、支配力を伸ばしている。右翼的な保守思想が強く、CFCと骨肉の争いを繰り広げている。
トシマ
ニホンのかつての首都トウキョウにある地区。第三次世界大戦後、東西端から復興活動をしている間に犯罪者が集まり退廃してしまった。
治安は極めて悪く、建物もほぼ廃墟しかない。一見するとゴーストタウンのような街。物品も不足していている。
イグラ
トシマで行われている殺人可能なバトルゲーム(本来、この時代における殺人は重罪である)。
参加したいものはヴィスキオでアルビトロに会い、意思表明をする。直後に5枚のドッグタグが配られる。参加者の証として、そのうち首から1枚のタグを下げなければならない。タグにはトランプの手札に見立てた模様が彫られている。参加者はこれらのタグを奪い合い、命を賭けたポーカーを行なうことになる。
銃器の使用は禁止で、立会い人(見物者)のいないバトルは無効。相手が死ぬか、完全に背中が地面についたら試合終了。バトルの勝者は敗者のタグを得ることができ、敗者を好きなように扱うことが許されている。そして敗者には死が待っている。
ロイヤルストレート(スート関係なく10,J,Q,K,Aのストレート)か10以上のフルハウスで、イル・レへの挑戦権が得られる。
タグ
イグラの参加証。手札に関係ないタグ(ブタタグ。主に2?9のカード)は、中立地帯で食料やライン、医薬品と交換できる。また、アルビトロの所に持っていくと奴隷と交換できるらしい。
イル・レ
トシマに君臨する麻薬王の呼び名。その姿を誰も見たことが無い。タグの揃った挑戦者はヴィスキオの城でイル・レと1対1で戦う権利を得る。
ヴィスキオ
トシマを支配する麻薬組織。トシマに城を構えイグラを主催している。イル・レがボスだがその姿を知るものは無く、表向きはアルビトロが仕切っている。
処刑人
ヴィスキオの一員。イグラの監視、死体の処理を行っている。イグラのルールを破った違反者や敗者を文字どおり片付ける。キリヲとグンジがそれにあたるが、凶悪でいいかげんな性格から違反者でないものも殺されている。大抵の参加者は彼らを恐れている。
中立地帯
参加者が羽を休める場所。中立地帯での試合は厳禁とされている。バー「MEAL of DUTY」、ホテル、映画館があり、参加者はそこでタグを交換し食料やライン、医薬品などを手に入れることができる。
ソリド
トシマで流通している携帯用固形食品。ケミカルな味が若者に人気らしい。オムライス味、グリーンカレー味などがある。
ライン
トシマで流通しているドラッグ。普通のドラッグと違い、実際に精神的、肉体的に増強するためラインに手を出す参加者は少なくない。ヴィスキオが管理しているが出所は不明。
Bl@star(ブラスター)
スポーツ感覚のストリートファイト。殺人は禁止されている。若者に人気で、優勝すると賞金も出る。当初はただの殴り合いだったが、次第にルールも生まれた。個人戦のほか、団体戦もある。CFC支配地区が発祥だが、日興連支配地区にも飛び火し、現在はニホンの至る所で行なわれている。
ペスカ・コシカ
「コート」という名のリーダーが率いる、Bl@star最強と呼ばれたチーム。

2009年01月28日

沖田畷の戦い

沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)とは、日本の戦国時代の1584年(天正12)3月に肥前国島原半島(長崎県)で勃発した九州の戦国大名である龍造寺隆信と有馬晴信・島津家久連合軍の合戦である。畷とは湿地帯の中に延びた小道の意味である。

経緯
龍造寺氏は少弐氏の被官から下克上で戦国大名化し、隆信の代には佐賀を本拠地として肥前国をはじめ肥後国半国、筑前国、筑後国、豊前国一部(長崎県、佐賀県、熊本県北部、福岡県)を領していた。当時の九州では龍造寺氏、大友氏、島津氏の三勢力が拮抗していたが、そのうち龍造寺氏と薩摩国の島津氏は肥後を巡って対立していた。隆信に従属していた日野江城の国人領主である有馬晴信が島津義久に内通して挙兵すると龍造寺軍はこれを攻め、晴信に救援を求められた義久は肥後八代に進出して、弟の島津家久を総大将として軍勢を派遣する。
大和撫子 きゃく サバンナ スキニー 情熱支援 ジャング ナリー ハンドカ ヒットパレ シリング ファンキー サーモス カペラ サラリー ニッケ フリフリ シュプネ ルサン レセプト パング テーション ジェロ スイス イライン おりあお パラシ バーゼル 夢街道 桜雨1押 ノート ワスレ どんしゅう プリン ジャスラック レア日本 永遠偉 白い街 パイロット ブイディ ストーブ チャウダ トカラ 管弦 アビブ スター スティック オモ モカ モンタナ ほうすう

隆信は大軍(史書により18,000から60,000と開きがある)を率いて海路遠征し、島原半島北部から上陸すると神代(雲仙市国見町)から三会(島原市)へ進んで、合計8,000余の有馬・島津連合軍と森岳城(島原城)付近の沖田畷で対峙した。合戦は当初数に勝る龍造寺軍の優勢に思われたが、開戦前の急な陣立ての変更等で混乱をきたした龍造寺軍は有馬・島津軍の鉄砲隊を中心とした戦法や、島津軍得意の“釣り野伏せ”と呼ばれる戦術に翻弄された。混戦の中、総大将である隆信が討ち死にすると龍造寺軍は総崩れとなり、本拠地の佐賀城に向けて撤退した。 この敗戦によって龍造寺氏の勢力は衰退し、その後の九州では島津氏が急速に版図を広げていくことになる。

岩崎城の戦い(いわさきじょうのたたかい)とは、1584年(天正12年)に丹羽氏重と池田恒興の間で現在の愛知県日進市で行われた戦いである。小牧・長久手の戦いの一部を構成する。

1538年(天文7年)、丹羽氏清によって現在の愛知県日進市岩崎町に築城された平山城。この戦いが勃発時、城主である丹羽氏次(丹羽氏清の4代後)は徳川家康に従い小牧に出陣し、城は氏次の弟である丹羽氏重(当時16歳)が守っ

岩作の香流川を渡った三河奇襲部隊は、第1隊池田恒興・之助7千と第3隊戦付目堀秀政5千であった。これらの隊は、生牛ヶ原と金荻原を進んでいた。第2隊森長可3千の内別動隊は、一色城と長鍬城を焼き討ちした。

この火の手を見た岩崎城の留守番を預かった丹羽氏重と長鍬城の城主加藤景常は、偵察を出し松明を持たない行軍する部隊を確認して、城兵を招集し戦闘の為、女や子供を北西の空濠から、妙仙寺へ逃すとともに、午前4時に先制攻撃を仕掛けた。これに対し池田軍も反撃し、岩崎城守備隊は引き上げた。この攻撃を受け、岩崎城攻囲作戦指示が出され、伊木忠次が大手門に向け2千の兵卒で当たり、片桐俊忠が搦手門へ2千で攻撃することとなった。

これに対し、氏重は大手門より撃って出、攻城隊を3度撃退した。この反撃で、攻城隊の中には空濠に落ち負傷する者が出た。氏重は、城外の石橋付近で奮闘の最中に、岐阜根より南下して来た森長可隊の一部によって、竹の山より火縄銃で威嚇をされたため怯み、この隙に討ち取られた。

池田隊に城兵も集中していたが、手薄な北西部の破所より森長可隊が乱入したため、一部の城兵は百々柴に身を隠して脱出したものの、大混乱に陥り落城した。

その後
池田隊は、疲労が大きく六坊山で、朝食と休憩を兼ねて首実検を行い、配下の論功行賞を始めた。堀隊も、兵糧を運び食事をさせるが、三好隊の救援要請で、引き返すこととなった。そのため軍役は、午前8時に呼び戻しの下知を行い、直ぐに動ける森隊は、前山迄引き返すが、岐阜根まで後退して布陣し、池田隊の到着を待つこととなった。

小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、天正12年(1584年)に、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦役。小牧の役とも。当時は、長湫(ながくて)である。

開戦まで
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い時に、秀吉は織田信長の次男・信雄を擁立して、信長の3男・信孝を擁する柴田勝家に勝利した。この戦いの後、秀吉は同年暮れ新築した大坂城に信雄を含む諸将を招いた。それは、秀吉に対し臣下の礼をとることを意味することになるため、秀吉の「主家」を自認する織田信雄はこれを拒否し、大坂参城の命に従わなかった。

これに対し、秀吉は信雄家の家老であった津川義冬、岡田重孝、浅井長時(田宮丸)の3人を懐柔し、「3人が秀吉に通じた」というデマを流した。これに疑心暗鬼となった信雄は3月6日に三人を処刑、秀吉に信雄を攻撃する口実を与えてしまう。その信雄が家康に援軍を求め、家康が3月7日に出陣したことから、秀吉と家康との戦いとなる。

秀吉包囲網の形成
小牧の役に当たっては、紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親、北陸の佐々成政らが、信雄・家康らと結んで秀吉包囲網を形成し、秀吉陣営を圧迫した。

雑賀衆・根来衆の動き
雑賀衆・根来衆が海陸から北上して秀吉側へ攻勢をかけたので、秀吉が尾張へ出陣するのはかなり遅れた。秀吉の尾張出陣後も、雑賀衆・根来衆は大坂周辺を攻撃して、秀吉の心胆を寒からしめる。

小牧・長久手の戦い
羽黒の戦い
前半は小牧山周辺での戦いである。

3月13日、家康が清洲城に到着したその日、織田家譜代の家臣で信雄側に与すると見られていた池田恒興が突如、秀吉側に寝返り犬山城を占拠した。家康はこれに対抗するため、すぐさま翌々日の15日には小牧山城(かつて信長が築城していた)に駆けつけた。同時に秀吉側の森長可(恒興の女婿で本能寺の変で信長とともに戦死した森蘭丸の兄)も小牧山城を狙っていた。3月16日、小牧山城を指呼の間に望む羽黒(犬山市)に着陣する。しかし、この動きは直ぐに家康側に知られ、同日夜半、酒井忠次、榊原康政ら5000の兵が羽黒へ向けて密かに出陣する。翌3月17日早朝、忠次率いる部隊は長可勢を一気に奇襲。長可勢は奮戦したものの忠次らの猛攻に加えて戦術的な後退を敗走と勘違いするなど指揮系統の混乱も起こり耐えかね潰走した。これは、羽黒の八幡林という所で戦われたので、羽黒の戦い(八幡林の戦い)という。敵襲の心配がなくなった家康は3月18日、小牧山城を占拠し、周囲に砦や土塁を築かせ秀吉に備えた。

後半は長久手周辺での戦いが中心になる。秀吉は3月21日大坂城を出発、3月27日に犬山城、4月5日に楽田(犬山市)に着陣する。家康が小牧山城に入ってから秀吉の楽田到着までの間、両軍が砦の修築や土塁の構築を行った為、双方共に手が出せなくなり挑発や小競り合いを除けば、戦況は全くの膠着状態に陥った。

三河国へ
この状況を打開するため秀吉は家康側の陣地帯を迂回し、三河方面にでる迂回作戦を策定。総大将(本隊)秀次:兵8000余、目付・第3陣堀秀政:兵3000、次鋒・長可:兵3000、先鋒・恒興:兵6000。4月6日夜、三河に向けて出撃した。

通説ではこの作戦は池田恒興の建策によるものとされているが、この説は甫庵太閤記が初出と思われ、長久手の戦い直前の秀吉の書状(丹羽長秀宛)などから秀吉自身の策である可能性が高い[1]。

家康の追撃と岩崎城の戦い
家康は、4月7日に三好秀次勢が篠木(春日井市)辺りに宿営したあたりから近隣の農民や伊賀衆からの情報で秀次勢の動きを察知。翌4月8日に小幡城(名古屋市守山区)に入った。その夜半陣立てを決め、翌4月9日未明から地元の丹羽氏次・水野忠重と榊原康政・大須賀康高ら4500を先鋒として秀次勢の追撃を開始させ、家康・信雄も間髪いれず出陣した。

秀次勢は家康が小幡城に入った8日に行軍を再開し、9日未明には池田勢が丹羽氏重(氏次の弟)が守備する岩崎城(日進市)の攻城を開始する。氏重らはよく戦ったが、約三時間で落城し玉砕した(岩崎城の戦い)。

これも通説では先鋒の池田恒興勢が岩崎城から出撃した丹羽氏重の挑発の銃撃を受け、それが恒興が乗っていた馬に命中、恒興は落馬してしまい、恥をかかされ激怒した恒興は、この作戦が「奇襲」ということを完全に忘れ岩崎城攻略に取り掛かったとされている。[2]
この間、森長可、堀秀政、三好秀次の各部隊は、現在の尾張旭市、長久手町、日進市にまたがる地域で休息し、進軍を待った。しかし、そのときすでに家康勢は背後に、迫っていた。

白山林の戦い
岩崎城攻城戦が行われている頃、三好秀次勢は白山林(名古屋市守山区・尾張旭市)に休息していたが、後方から水野・丹羽・大須賀勢、側面から榊原ら先鋒勢の一斉攻撃に見舞われた。この奇襲によって秀次勢は成す術がなくほぼ潰滅する。秀次自身も乗馬を失い、供回りの馬を与えられ辛くも逃げ遂せた。また、目付け役として付けられていた木下祐久(秀吉の正室ねねの父、杉原定利とされるが、信長の元で奉行職などを勤めた別人説あり)やその弟の木下利匡を初めとして多くの木下一族が、秀次が落ちる余裕を稼ぐために討ち死にした。これを白山林の戦いという。

桧ケ根の戦い
秀次勢より前にいた堀勢に、秀次勢の敗報が届いたのは約2時間も後のことであった。堀秀政は直ちに引き返し、秀次勢の敗残兵を手勢に組み込んで桧ケ根に陣を敷き、迫り来る先鋒勢を待ち構えた。秀次勢を撃破して勢いに乗った先鋒勢は、ほどなく檜ヶ根(桧ケ根、長久手町)辺りで秀政勢に襲い掛かったが、かつて信長に可愛がられ、戦上手なことから「名人久太郎」と尊称された秀政の前に敗退した。これを桧ケ根(檜ヶ根)の戦いという。

この間、家康は豊臣勢を分断するために迂回し、長久手を見渡せる色金山に着陣。そこで先鋒勢の敗退を知り、堀隊後方の現在は「御旗山」と呼ばれる高地へ前進して池田・森隊との間を分断した。この時、秀政は家康の馬印である金扇を望見し、「戦況は我が方に有利ではない」と判断し兵を引いて退却した。

先鋒・池田恒興、次鋒・森長可に家康出現の報が伝わったのはこの頃、両将は驚愕し大慌てで引き返し始めた。その頃、家康は康政勢の敗残兵を組み込み、御旗山から前山と呼ばれる辺りに陣を構えた。右翼に家康自身3300余、左翼には井伊直政3000余、これに信雄勢3000を足して9000以上。一方、引き返して対峙した恒興・長可勢は右翼に恒興の嫡男・池田元助(之助)・次男輝政4000余、左翼に長可勢、後方に恒興が陣取りこちらも9000余。しかし、数では互角であったものの地形的には既に徳川勢が山に陣取り斜面に鉄砲隊を3段構えで配するなど万全の構えであるのに対して池田勢は湿地帯であって機動力が生かしがたい長久手の地への布陣を余儀なくされるなど完全に後手に回った形となっていた。対峙は2時間ほど続いたという。

長久手の戦い
成島司直の『改正三河後風土記』に詳しい。→「長湫合戦付池田森討死の事」

4月9日午前10時ごろ、ついに両軍が激突。両軍入り乱れての死闘は2時間余り続いた。戦況は一進一退の攻防が続いたが、森長可が鉄砲隊の銃弾を眉間に受け討死した辺りから一気に家康勢有利となった。長可を死に至らしめた銃撃が家康旗本か直政勢が繰り出したものかははっきりとしないが、長可の首級は本多八蔵が挙げたとされる。[3]

池田恒興も自勢の立て直しを図ろうとしたが、家康勢・永井直勝の槍を受けて討死にした。元助も安藤直次に討ち取られ、輝政は家臣に父・兄は既に戦場を離脱したと説得され、戦場を離脱した。やがて恒興・長可勢は四散し遭えなく潰滅、合戦は家康の大勝利に終わり、ただちに小幡城に引き返した。秀吉軍に2500余り、家康軍には550余りの死者が出たとされる。これを長久手の戦い、またはとくに仏ケ根の戦いともいう。

その後の戦い
秀吉は同日に威力偵察として小牧山へ攻撃をしかけたが、敗退している。午後に入って白山林の戦いの敗報が届き、秀吉は20000の軍勢を率いて戦場近くの竜泉寺に向けて急行した。しかし、500の本多忠勝に行軍を妨害される。夕刻、「家康は小幡城にいる」との報を受け翌朝の攻撃を決める。家康はこの間に小幡城を出て小牧山城、ついで清洲城に帰還した。秀吉はしばらく後になってこの報を聞き、4月10日には楽田に退き、5月1日に楽田からも撤退して大坂城に帰還した。

6月16日には滝川一益が家康側の蟹江城(蟹江町)を攻撃したが家康勢に蹴散らされ(蟹江城攻め)、一益は責任を取らされ出家させられた。9月9日には家康に呼応した佐々成政が大軍で能登の末森城(石川県宝達志水町)を攻撃、落城寸前にまで至らしめたが前田利家の猛反撃に遭って退却した。

休戦・講和へ
戦況は信雄・家康側に有利に移行したが、秀吉側の蒲生氏郷ら別働隊が信雄領である伊賀・伊勢に侵攻し、その殆どを占領し、さらに伊勢湾に水軍を展開させ信雄に精神的に圧力を加えた。 秀吉は合戦から半年以上経った11月11日(11月15日説あり)に、秀吉側への伊賀と伊勢半国の割譲を条件に信雄に講和を申し入れ、信雄はこれを受諾する。信雄が戦線を離脱し、戦争の大義名分を失ってしまった家康陣営は11月21日についに兵を引いた。

信雄は伊賀と伊勢半国を割譲させられ伊賀は脇坂安治(後に筒井定次が大和から移封)、伊勢は蒲生氏郷ら秀吉方大名に分け与えられた。

その後、秀吉は滝川雄利を使者として浜松城に送り、家康との講和を取り付けようと試みた。 家康は返礼として次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子にするために大坂に送った。 こうして、小牧の役は幕を閉じた。

秀吉包囲網の瓦解
信雄・家康が秀吉とそれぞれ単独講和してしまったため、紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親らは孤立し、それぞれ紀州攻め・四国攻めにより制圧されることになる。

この後、佐々成政が雪深い立山を越えて(さらさら峠越え)、浜松の家康を訪れ、秀吉への抵抗を促したが聞き入れられず、成政は空しく同じ道をたどって越中に帰っていった。これによって、天下の趨勢は更に秀吉政権確立へと進んでいくこととなったが、秀吉と家康が講和するまでには、まだ2年もの月日を必要とした。

また、佐治一成に嫁いだ浅井長政の三女・於江与は夫が秀吉側から家康側に寝返ってしまったため、これに怒った秀吉は一成の所領を没収し於江与は離縁させられた。於江与は、後に家康の子徳川秀忠と再婚し、その正室となった。

徳川家康の評価
この戦いで、中央の覇者である豊臣秀吉の三河先遣隊2万に圧勝したことにより、野戦の達人と評価され恐れられるようになる。新井白石の藩翰譜に、海道第一と聞えさせ玉ひし弓取。成島司直の改正三河後風土記に、海道一の徳川殿。東照宮御実紀(徳川実紀)に、徳川を海道一の弓取とはいひしぞ。など、この時の様子が記述されている。

政治史的意義
この戦いで、秀吉は家康を完全に屈服させることに失敗し、征夷大将軍補任、すなわち幕府開設への道が閉ざされ、後の政治史へ大きな影響を及ぼすこととなったという説がある。これは当時の観念では、名実ともに武家の棟梁を意味する征夷大将軍となるためには、東国(特に関東)を支配することが必要条件とされており、戦国期に関東を支配していたのは北条氏だったが、家康は北条氏と同盟関係にあり、秀吉が東国・関東を支配するには、まず家康を屈服させる必要があったという説である。

小牧の役はこのように政治的色彩の極めて強い戦役だったと考えられている。秀吉は家康を屈服させられず、後に北条氏を征服することには成功したものの、終始家康に対する不安と懸念の解消は果たせなかった。 その為、家康が秀吉に臣従した後も秀吉一門衆筆頭である豊臣秀長と同時に冠位を上げられるといった、豊臣政権内の最大外様大名としての地位を確固たるものとした。後の徳川幕府への道はここから始まっていたとも言われる。

名称について
この戦役全体は、江戸時代には江戸幕府・徳川氏の公式記録(東照宮縁起、尾張藩『小牧陣始末記』など)では「小牧陣(こまきのじん)」と呼ばれていた。別に「岩崎口の戦い」と記録した文献もある。

成島司直の改正三河後風土記では、岩崎城軍付秀次敗走の事、長湫合戦付池田森討死の事、秀吉出軍付忠勝猛勇の事、などと個別に題名が付いている。

その長久手における戦いは「長久手合戦」と呼ばれて両者は区別されたが、「小牧陣長久手合戦屏風」のように混ぜて使われることもあった。当時の戦闘を記した文献では、「小牧軍記」・「小牧陣始末記」・「長久手合戦覚書」・「丹羽長久手軍記」・「別本天正記」・「天正征伐記」等「小牧」と「長久手」を同一にした名称を使った書物はきわめて少ない。明治維新後には参謀本部が、戦争・戦役を「役」、戦闘を「戦(たたかい)」などとする統一的な表記を使い始め、戦役の方は「小牧役(こまきのえき)」、戦闘の方は「長久手戦」などとする表記が多く広まった。「小牧・長久手の役」という表記もある。

これは、戦場となった地域が当時としてはかなり広い範囲に散らばっていたこと、小牧が陣地構築による対峙であったのに対し長久手とその近辺では機動戦が行われ、戦闘の性格が大きく異なるものであったこともあったものと思われる。


2009年01月20日

地球科学(ちきゅうかがく、earth science)

地球科学(ちきゅうかがく、earth science)とは、地球を研究対象とした自然科学の一分野であり、近年では太陽系に関する研究も含めて地球惑星科学 (earth planetary science) ということが多くなってきている。また日本では、ほぼ同義で主に高等学校での科目名や大学での学科名としての地学という呼び名が一般的に用いられてきた。

地球科学は、地球磁気圏から地球内部のコアに至るまで地球に関するあらゆる学問を総称した名称であり、内容は地球の構造や環境、歴史などを目的として多岐にわたる。地球に関する研究は、石炭の発掘などの実用的な目的の中で地層の層序や堆積構造などを解明する地質学が発達したことに始まるが、自然史学的な色彩が濃かったために比較的進歩は遅く、20世紀になってようやく地球に対する認識が大きく進展してプレートテクトニクスの発見などの飛躍を見せた。しかしながら地球に関してはまだ解明されていないことが多く、まだ本格的な研究は始まったばかりと言っても過言ではない。地球は実質的に人類の生活できる唯一の星であり、資源の利用法など、人類の進歩のためにその解明の必要性はむしろ高まりつつある。また、近年大きな関心を寄せられている地震予知や環境問題、火星探査などに直接関わる分野として注目され始めており、今後の更なる発展が期待される学問である。

地球科学あるいは地球惑星科学は、ひとつの学問体系というよりは地球に関する様々な学問分野の総称であり、地質学・鉱物学・地理学・地球物理学・地球化学などに細分化されているのが現状である。またその研究対象も分野によって大気圏・表層環境・生命圏・地球内部・太陽系など多様であるが、最近ではこれらの相互関係に重点を置いて地球全体をひとつのシステムとしてとらえ総合的に研究しようとする地球システム学(惑星システム学)が提唱されている。

また、地学という言葉は幕末に geography の訳語として提唱されたものであるが、明治になってgeography を地理学、geology を地質学と訳すのが普遍的になったため、地学という語義はやや曖昧である。一般には物理・化学・生物などと同様に、高校の授業科目や大学受験科目として地球や天文に関するものを「地学」と呼ぶことが多い。大学などにおける専攻分野としての「地学」は地質学・鉱物学を主体とするものであるが、通常これに加え古生物学や自然地理学などが含まれる。さらに広義には「地球科学」とほぼ同義に用いられることがある。
トロラン マケド サイフォ 支援ハム ファー キール ジェット レーダー ロールオ デイゲ モール かでな ルーレット タラソテ アーク コート ユークリッ さがほのか ピュービッ チリメン マーク リスク シルク カーゴ 未来の地図 ほこた クローズ ナチズ リバイ スベタパ イヌホ 一所懸命 リズミカル ジンマオ 星空の ロマンチスト ヒメジョオ ケジャン フェースラ デコサ タート ニンフ パラフェニ 浮草の宿 プレイボ カミーン チボール かせい アイト ユキモチ

分野
以下に、地球科学あるいは地球惑星科学と総称される主な研究分野を挙げる。これらは必ずしも独立の用語ではなく、同義あるいは互いを包括する語として用いられることが頻繁にある。

自然地理学 (physical geography)
地形学 (geomorphology, topography)
水文学 (hydrology)
気候学 (climatology)
地域地理学 - 地誌学のうち自然について研究するもの
測地学 (geodesy)
土壌学 (pedology, soil science)
地質学 (geology)
地史学 (historical geology)
古生物学 (paleontology)
層序学 (層位学、stratigraphy)
堆積学 (sedimentology)
構造地質学 (structural geology)
岩石学 (petrology)
鉱物学 (mineralogy)
鉱床学 (economic geology, science of mineral deposit)
地球化学 (geochemistry)
地球物理学 (geophysics)
地球電磁気学
地震学 (seismology)
火山学 (volcanology)
海洋学 (oceanography)
海洋物理学 (physical oceanography)
海洋化学 (chemical oceanography)
海洋生物学 (biological oceanography, marine biology)
海洋地質学 (marine geology)
気象学 (meteorology)
大気物理学
大気化学
雪氷学 (glaciology) - 水の固体状態に対する総合総合/学際分野
地球環境科学 - 地理、地形、地質、海洋などなどの総合/学際分野
地球工学
惑星科学

関連分野
天文学 (astronomy) - 宇宙物理学(天体物理学、astrophysics) - 宇宙科学 (space science)
土木工学 (civil engineering)